ポジティブ心理学の前史とは、1998年のセリグマンによる提唱以前に「人間の可能性・健康・幸福」を研究した心理学の系譜のことです。ウィリアム・ジェームズの「健全な心」研究(1900年代初頭)、フランクルの意味の心理学(1940年代)、ヤホダのポジティブ・メンタルヘルス論(1958年)、マズロー・ロジャースの人間性心理学(1950〜60年代)、チクセントミハイのフロー研究(1970年代〜)がその主な流れであり、ポジティブ心理学はこれらを科学の方法で研究し直すことから始まりました。
「ポジティブ心理学は1998年にセリグマンが提唱した」——この説明は正しいのですが、それだけでは半分です。1998年は「誕生」というより「合流」でした。この記事では、100年におよぶ前史を人物でたどります。
アメリカ心理学の父ウィリアム・ジェームズ(1842-1910)は、著書『宗教的経験の諸相』(1902年)の中で、世界を肯定的に捉える「健全な心(healthy-mindedness)」の心理を分析しました。病んだ心だけでなく、幸福で健康な心のあり方そのものを研究対象にした点で、ジェームズはしばしば「最初のポジティブ心理学者」と呼ばれます。人間のエネルギーをどう引き出すかを問うた晩年の講演も、今日の「人間の最適な機能」の研究を先取りするものでした。
「良い状態の心」を科学の主題にするという発想自体は、心理学の草創期からあった。ポジティブ心理学はジェームズの問いの再発見でもある。
ウィーンの精神科医フランクル(1905-1997)は、ナチスの強制収容所を生き延びた体験から『夜と霧』(1946年)を著し、極限の苦しみの中でも人は人生に意味を見いだせることを示しました。彼の創始したロゴセラピーは「意味への意志」を人間の根本動機とみなします。
この系譜は、初期のポジティブ心理学ではなく、のちのポジティブ心理学2.0で本流に合流します。苦難・逆境・意味を扱う現代のポジティブ心理学の源流は、フランクルにあると言ってよいでしょう。
「幸福の心理学」より先に「意味の心理学」があった。フランクルはポジティブ心理学2.0の最も重要な先駆者である。
社会心理学者ヤホダ(1907-2001)は、1958年の著作でポジティブ・メンタルヘルス(積極的精神健康)の概念を提示し、精神的健康とは単に症状がないことではなく、自己受容・成長・自律・環境への適応力など積極的な要素で定義されるべきだと論じました。「マイナスがない=ゼロ」と「プラスがある」は違う——のちのポジティブ心理学の根本主張を、40年早く定式化していたことになります。
ウェルビーイング研究の骨格「疾病の不在≠健康」はヤホダが原型をつくった。前史の中で最も見落とされがちな重要人物。
1950年代、精神分析と行動主義に続く「第三勢力」として人間性心理学(Humanistic Psychology)が登場します。マズロー(1908-1970)は欲求階層説と自己実現の研究で、ロジャース(1902-1987)は来談者中心療法と「十分に機能する人間」像で、人間には本来、成長へ向かう力が備わっているという人間観を打ち立てました。
特筆すべきは、マズローが『動機づけと人格』(1954年)の最終章にすでに「ポジティブ心理学へ向けて」という表題を掲げていたことです。言葉としての「ポジティブ心理学」は、1998年より44年早く生まれていました。詳しくは関連記事「マズローとポジティブ心理学」で解説しています。
ただし人間性心理学には、その主張を測定・実験で検証する方法論が十分に育たなかったという限界がありました。この「未完の宿題」こそ、のちのポジティブ心理学が引き受けたものです。
人間性心理学は「人間観」を用意し、検証は宿題として残した。ポジティブ心理学の新しさは思想ではなく方法にある。
1970年代以降、「よい心の状態」を実証的に測る研究が各地で芽生えます。チクセントミハイ(1934-2021)は活動に没頭するフロー体験を発見し(1975年〜)、ディーナーは主観的幸福感(SWB)の測定研究を体系化(1984年〜)、セリグマン自身も「学習性無力感」の研究を反転させ、説明スタイルと学習性楽観主義の研究へ向かいました。バンデューラの自己効力感研究もこの時期です。部品はそろいつつありました——あとは、それらを束ねる旗印だけが欠けていたのです。
1998年の提唱は無からの創造ではなく、四半世紀かけて成熟した実証研究群への「命名と組織化」だった。
| 前史(〜1997年) | ポジティブ心理学(1998年〜) | |
|---|---|---|
| 人間観 | 人間には成長へ向かう力がある(人間性心理学) | 同じ人間観を引き継ぐ |
| 方法 | 臨床観察・思想・事例が中心 | 測定・実験・追試などの実証科学 |
| 組織 | 研究者が個別に散在 | APA会長講演を起点に研究者を組織化・研究資金を確保 |
| 対象 | 自己実現・意味・健康など個別テーマ | 幸福・強み・ウェルビーイングを統合した研究領域 |
| 応用 | 心理療法・教育の一部で実践 | 教育・職場・医療・コーチングへ体系的に展開 |
セリグマン自身、ポジティブ心理学が先駆者たちに負っていることを認めています。当協会の特集「ポジティブ心理学の歴史と物語」でも、この連続性を年表で示しています。
前史を知ると、ポジティブ心理学は「流行の自己啓発」ではなく、心理学100年の正統な系譜の上にあることがわかる。
1998年のセリグマンによる提唱以前に、人間の可能性・健康・幸福を研究した心理学の系譜を指します。ジェームズの健全な心、フランクルの意味の心理学、ヤホダのポジティブ・メンタルヘルス、人間性心理学、フロー研究などが含まれます。
しばしばウィリアム・ジェームズが挙げられます。1902年の『宗教的経験の諸相』で「健全な心」の心理を分析し、良い状態の心を研究対象にした先駆者だからです。
アブラハム・マズローです。1954年の著書『動機づけと人格』の最終章に「ポジティブ心理学へ向けて」という表題を掲げました。セリグマンの提唱より44年前のことです。
人間観はほぼ共通ですが、方法が異なります。人間性心理学は臨床観察や思想が中心だったのに対し、ポジティブ心理学は測定・実験・追試といった実証科学の方法で同じテーマを研究し直しました。
フランクルの「意味への意志」の思想は、苦難や逆境の中の意味を扱うポジティブ心理学2.0の重要な源流です。初期のポジティブ心理学よりも、第二世代で本格的に合流しました。
1958年にマリー・ヤホダが提示した概念で、精神的健康を「症状がないこと」ではなく、自己受容・成長・自律などの積極的な要素で定義するものです。ウェルビーイング研究の原型とされます。
含まれます。チクセントミハイが1970年代から研究したフロー(没頭)は、1998年以前に確立していた「よい心の状態」の実証研究であり、のちにポジティブ心理学の中核概念の一つになりました。
思想ではなく方法と組織化です。先駆者たちの人間観を、測定と実験にもとづく研究領域としてまとめ、APA会長講演を起点に研究者と研究資金を組織した点が新しさです。
役立ちます。ロジャースの傾聴、フランクルの意味、マズローの成長論は現代のカウンセリング・コーチングの土台であり、ポジティブ心理カウンセリングはこれらの系譜を統合して実践します。
特集「ポジティブ心理学の歴史と物語」で、1998年の誕生から2020年代のポジティブ心理学2.0、日本での展開までを年表つきで解説しています。
「ポジティブ心理学」を最初に語った心理学者。欲求階層説の本当の意味。
傾聴と実現傾向。来談者中心療法から強み支援への系譜。
『夜と霧』から意味の心理学へ。ポジティブ心理学2.0の源流。
すべての記事の起点:特集「ポジティブ心理学の歴史と物語」
100年の系譜の続きは、いま学ぶ人がつくります。ポジティブ心理学を体系的に学ぶ入口はこちらから。